明鏡止水

割とちゃんとまとめた感想とぐちゃぐちゃの私信

ありがとう


ありがとう、って言えてない。


ってよく言いますよね、聞きますもん。

でも違う。言ってるじゃないですか。


多分みんな意識してないからわからないんですよ。それはつまりどういうことか。わからないくらい「ありがとう」って言ってるんですよ。


でも、「ありがとう」っていう言葉のありがたみってみんな忘れてます。「ありがとう」ってありふれた言葉だし、なんというか面白味がないってことなんですかね。


それかみんな、「ありがとう」って言いすぎなんじゃないかって思うんです。


それは例えば、物を拾ってもらったりして「ありがとう」って当たり前に言いますよね。


物を貸してくれる人に「ありがとう」、返すときに「ありがとう」


店に入って物を買って、出て行くときに「ありがとうございました」って言ってるじゃないですか。


「ありがとう」って言ってるし、言われてるんですよ、日常的に。


でもそれが何だ。


「ありがとう」っていい言葉ですよ、ありきたりでどんどんあいさつ化していってますけど。


だからこそ面と向かって言う「ありがとう」ってドキドキするんですかね。


だからこのままでもいいんだけど、「ありがとう」は言ったもん勝ちじゃない。


さっき言ったような「ありがとう」は最早「ありがとう」というよりも「こんにちは」に近づいてきているのは、困りますね。




何を突然いうとるんや、と思ったと思うんですが


実家に帰って教育実習なんかに必要な過去の勉強道具を引っ張ってきてたんですね。


そしたら、中2の少年式に書かされた自分史が出てきました。


その「ありがとう」の項目に書いてあったことです。(本文ママ)


つまり13歳くらいのときに書いた文章を書き写しました。恥ずかしい。


でも文章がぐっちゃなってるのは仕方ないとして、文体とか今と一緒すぎでは?ユーモアがかなり死んでるけど。成長とは?


もっと生意気なこと書いてるとこもあります。


「挑戦」という項目にて


『もし他の部活に入っていたらどうなっていたんでしょうね。でも私はそれはそれで良かったと思えるんじゃないかと思います。だから結局のところ、どの部活でも最後は「良かった」と思えると思うんです。で、部活が違うことによる相違点は「良かった」に至るまでの道のりであって、ゴールは一緒だと思います。』



これはね、今もおんなじこと言ってる。


でも捻くれてしまった今の自分だとこうです。


『私は今の大学は行きたかった大学とは全然違うし、学びたかったこととも全然違う。とはいえ、ここでしか出会えない色んな友人や先生なんかに出会えて良かったと思っています。でももし他の大学に入っていたらどうなっていたんでしょう。それはそれで、こんな友人に出会えて良かった、と言っていたことでしょう。つまり、大学が違うことによる相違点は「学歴」と「偏差値」であって、良い大学に行けば行くほど良いということです。そこでどういう人に出会うかは、大学のレベルには全く持って関係ない。』



あの頃は自分捻くれてると思ってたけど、あれは絡まったコードくらいの捻くれで、ちょっとで解けるようなものでした。


しかし今はどうでしょう。器用な野球部のマネージャーの作ったミサンガのように、何色も使用され一生切れなさそうな捻くれ方をしているようです。

  

成長とはこういうことです(違う)