明鏡止水

割とちゃんとまとめた感想とぐちゃぐちゃの私信

初舞台とうどんを踏む


学校で人生を語ると言ったのでじゃあ次は小学校だよなぁと思いましたが、ちなみに幼稚園も年長さんになるとさすがにちゃんと友達ができて、周囲になじむことができたというところをお知らせします。あと当時病気がちでしたが20年は生きられたことをお伝えします。


小学校は3年生からブラスバンドをしていて、もうその部活のイメージで塗り固められています。


暇だったりもしたので音楽準備室に潜り込んでは小物楽器を漁ったり楽譜を漁ったりして遊んでました。そのときにたくさん小物楽器を覚えました。


入部したとき、パーカッションはなぜか一名しかおらず、その先輩の指導のもと基礎練習をしていたのですが、当時の顧問にいきなり「トランペットやらないか」といわれ2人してトランペットに移動させられました。


なので実はトランペットも吹いていたことがあります、3日。


どうしてもパーカッションがやりたくて入部したので、顧問に頼み込んで戻らせてもらったのです。しかし、唯一の先輩はトランペットを吹いています。仕方ないので教えてもらった基礎練習をしたり、適当な教則本をコンプリートしたりしました。


でもパーカッションなので、音もないですし、基礎練習も毎日毎日それだけとなるとあんまりたのしくありません。一緒に練習していた管楽器の友人たちも、同じような感じでした。


次第にみんなでサボりはじめていたそんなとき「曲ができるぞ!」という噂を持ってきたやつがおり、その日は顧問の先生が来るのをワクワクしながら待っていました。


顧問の先生は楽譜を持ってやってきました。

「そろそろ曲を吹くか」と。


その曲は「オーラ・リー」でした。

多分聴いたらわかると思います、寝れるヤツです。


次々と楽譜が配られていくなか、自分の楽譜だけありません。


そう、曲が分かるひとには分かると思いますが、この曲、パーカッションはないんです。


みんなが曲を吹き始めるなか、延々と基礎練習をしていました。さすがに飽きました。そのときの教則本から「大きな栗の木の下で」が作者不明であるという知識をつけました。


音楽室から見える住宅街、あんな家に住めたらいいなぁとかもしあそこに自分が住んでいて、隣に好きな芸能人が住んでいたらとか考えながら無意識にスティックを動かしていました。あのときに妄想癖がついたのかもしれません。


結局それが3年生の後期で、4年生になるまで曲を演奏することはなかった気がします。パーカッションパートを1人で守り続けている間、入ってきた同期や途中加入の先輩にも基礎練のやり方を教えました。もはや仙人のようになっていました。


4年生になって顧問が変わってから、パーカッションもメンバーが揃えられ、先輩も帰ってきて、そんななかで初めてもらった楽譜はGReeeeNの愛唄でした。


ドラムセットのないうちの小学校では花形であるスネアドラム(小太鼓)を担当して、当時流行ったイケナイ太陽とともにちゃんとしたホールで演奏しました。それこそオレンジレンジも来たことあるようなホールでした。あれが初舞台かもしれません。


ちなみに高校時代、そのホールで初めて見たTEAM NACSのメンバーが戸次重幸さんでした。ちゃんとした観劇はあれが初であり、めちゃくちゃドキドキしながら行ったのですが、同じ舞台に出演していた中井貴一さんのファンのおばさまたちで埋め尽くされており、思ってたのとなんか違いました。隣に座ったおばあさまも、中井貴一に釘付けだったことでしょう。


まあ結局何が言いたいかというとプルーンって小学校時代給食で出て、割と好きだったけど苦手な人多いよね、って話です。