邪気眼も疼き出す今日この頃
夏場ちょっとおかしくなって自分のことを金管楽器奏者だと思い込んでおり、唇のケアを欠かさず、腹筋を毎日100回執り行っていました。
人生の遡りがシリーズ化してきたのでこのまま書けば15日なんてすぐに終わってしまうじゃないか!と思って味をしめております。
ですが、中学時代はちょっと暗黒です。わかりやすく眼帯をしたり左手が疼いたりするタイプの厨二病黒歴史があるわけではないですが、黒歴史があるという点においてはあまり間違っていません。
でも未だに眼帯はなんかかっこいい気がします。したことないのでめっちゃしてみたいです。一回くらい目を突こうかしら。
小学校時代は華々しい部活動生活を送っており、あのままパートリーダーとして数多くの後輩を抱え、美しく卒業したわけです。ちなみに初めて指導してもらった先輩は、あのときトランペットに勧誘されたせいもあるのか、中学ではトランペットに転向しました。
もう一人、年上の人がいたのですが、その人は自分より後に入部しているので先輩と言っていいのかよくわかりません。最初の方は自分の方が指導していた気もします。
そんな先輩(と呼ぶことにします)は中学校に上がって吹奏楽部としてパーカッションを続けていました。
その初めての舞台である吹奏楽コンクールには、足を運びそのレベルの違いに驚いたものです。我々はその当時同じ場所で「ニホンノミカターネバダカラキマシター」を演奏するなどしていたものですから。ちなみにそれも例の中井貴一ホールです。
当時の小学校の部活は先輩後輩といえども友達のようなもので、あだ名で読んだりタメ口で喋るのは当たり前でした。
それが中学になると挨拶に厳しく、敬語を使わないといけない、という環境や指導の厳しさのイメージなどから続けるかどうかずっと迷っていました。
そんななか、進学してもパーカッションを続けていた先輩は部活を辞めてしまいました。どんなに厳しいものかと思いましたが、それでもパーカッションを続けたい!そんな思いを歌にしました、聴いてください。ではなく、卒業文集にしたためました。これは卒業アルバムに載るもので、ここに書いたからには吹奏楽部に入部するしかない、後には引けないという状況を作り出しました。
そうして吹奏楽部に入部し、パーカッションをやりたいと思いながらも一応さまざまな楽器の体験をしました。当時やってみて無理だな、と思ったのはフルートとクラリネット、あとはホルンでした。フルートはその後克服しましたが、あれからクラリネットは特に吹ける気がしません。
とはいえ私は何も吹ける必要がないのです。なぜならパーカッションだから。サンバホイッスルが吹けたら十分です。
しかし、ホイッスルが世界一簡単な笛だとするなら世界一難しい笛を吹くことになるのですが。
ちなみに当時、楽器が12種類あり、12希望まで書いて提出せねばなりませんでした。一番やりたいのはもちろんパーカッションです。二番手はサックスでした。かっこいいし簡単だったからです。三番手にトロンボーンを選びました。かっこいいし楽しそうだったからです。馬鹿の感想ですがそれも仕方ありません、なぜなら二番手三番手などどうでもいいからです。本命は第一希望。それ以外はどうでもいいのです。蓮舫さんもびっくりです。
そもそもうちの中学は小学校3校からなり、そのうち2つの小学校の出身者が多くを占めています。その片方はブラスバンドがないのだとか。さらにうちの小学校でパートリーダーをし、小学校時代妄想癖を拗らせながら基礎練習をしていたのは私だけです。初期メンバーです。SAKEROCKでいうなら星野源です。選ばれないわけがない。
と思っていたのですが、楽器は第六希望のオーボエでした。発表されたときのことはマジでショックだったのか覚えてないです。ホワイトボードにあったのか、口頭の発表だったのか、覚えてません。
オーボエと対面することになって泣きました。めちゃくちゃに泣いて家に帰っても泣きました。他にも希望楽器にならなくて泣いてる人はいましたが、「おめーら泣いてんじゃねぇよ、こっちは小学校3年生のときから好きな楽器にフラれたんだぞ」と思っていました。
しかもパーカッションになったのは自分より2年もあとに入ってきた同期の後輩です。私が育てたようなものです。もう1人なんかは小学校時代トランペット吹いてた人です。納得できる理由をくれ。
理由としてはオーボエを吹ける人がいなかったこと、それだけです。あとみんなオーボエは10希望以下にしており、6位という順位は高順位だったようです。
そのときマジで部活を辞めるか迷いました。小学校で散々やってきたことが無駄になったようで、オーボエを吹くことが嫌でした。いや、せめてクラリネットとかなら受け入れられたのかもしれませんが、オーボエです。なんかばかそうな名前だし、ちょっと理解に時間のかかる楽器です。
さらにひどいのは先輩がいないということ。同じダブルリード楽器のファゴットに先輩がおり、その方が兼任してくれてはいましたが、直属の先輩はいません。なんか小学校時代のデジャヴのようです。
しかし、あの時書いた卒業文集が励み(枷)となり、続けることになりました。なんだかんだ3年間続けてきましたが、マジで難しいので全然上手くならなくて先生にキレられまくる3年間でした。ぴえん。
しかし2年生の時にはあの三木プルーンホール(ありそう)であった吹奏楽コンクールにおいてソロを演奏し、その回に四国大会こそ行けませんでしたが金賞までとることができました。
顧問もコンクールで賞を取ることを目的とする先生ではなく、コンクールに出ることはポップスを吹くときのスキルアップのためだ、という方であったために、それでも十分な結果でした。
と、黒歴史を除くとこんな感じでした。
この中学生のころ、ミスチルも好きになりましたし、演劇も好きになりましたし、中井貴一おばさまとの出会いのきっかけであるTEAM NACSを知ることになったりもします。
お笑いと音楽しか好きじゃなかった小学校時代。本当に中学を卒業するかしないかのギリギリまでドラマをひとつも見たこともありませんでしたが、演劇をきっかけに見るようになりました。ここから急速に人生が豊かになっていった気がします。
最後にまあまあ衝撃のカミングアウトがありました。初めて見たドラマは慰謝料弁護士、という深夜ドラマでした。あれ、面白かったですよ。