明鏡止水

割とちゃんとまとめた感想とぐちゃぐちゃの私信

演劇部を作ろうとしたら学校で一番怖い先生に校長室で頭を下げられた話



わたしは小学校に出入りする仕事をしているのですが、日の落ちるのが早くなった今の頃、小学校時代の幻の演劇部の話を思い出した。


もしかしたら前にツイキャスとかで話してて、前言ってたじゃん知ってるわ、何思い出したとか嘘ついてんの、ってなったらごめん。ほんとに最近思い出したんだもん。





登場人物


ブラスバンド部初期メンバー。

打楽器パートのリーダー。

友達と使ってる過疎ったチャットで某アイドルの悪口を書いたら「つんみ死ね」と書き込まれた。


Aちゃん 

ブラスバンド部初期メンバー。

姉が2人おり下ネタを仕入れてきては教えてくれる。特別支援学級の若い先生に読めないギャル文字で書いたラブレターを送った悪ガキ。


Bちゃん

幼稚園からの幼なじみだけど話したことがほぼなく、私が「かわいいね」とナンパしたことから仲良くなる。一番下ネタに疎かったのにお父さんの前で魚肉ソーセージをエロく食べた話をして全員を引かせた。


Cちゃん

6年生になって転校してきた。当時では珍しく自分のパソコンを持っていて、パソコン関係に詳しかった。離婚した母親が彼氏を連れ込んでにゃんにゃんしてるところを見てしまい我々が爆笑しながら心配した(優しい)



Fちゃん

ブラスバンド部の後輩。



M先生

学年主任。顔は深海魚。

学校でも一番怖いと有名であり、よく怒号が響く。納豆が匂いすら嫌いで給食が納豆のときは教室から逃亡する。



担任。

メガネ。

喧嘩をするときは性根を入れろ、が口癖。性根が何かよくわからず聞いてた。


校長

酒焼け声のおばちゃん。

うちの小学校の伝統を潰していった。






それは確か6年生の10月とか11月の頃。ブラスバンド部を引退した。3年生の頃からブラスバンド部だった私たちは平日の放課後は毎日練習をしていたため、放課後に遊びに行くことがあまりなかった。引退して暇になった放課後、やることがなくてブックオフに行ってはエロ漫画を立ち読みしてみんなで情報共有していた。帰りにはサークルKでスティックチーズケーキを買って食べた。


私はクラスではA B C4人組でよく連んでいて、まだ携帯を持ってなかった子もいた当時時間を合わせてチャットルームで会ったりしていた。あとはだいたい休み時間に空き教室でエロ情報を共有していた。


あるときAちゃんが「演劇部に入らない?」と言った。今でこそ演劇が好きな私だが当時は全く興味がなかったので全然入りたいと思わなかった。しかもやっとブラスバンドを引退して時間ができたところだったし、そもそももうすぐ卒業する。今さら部活に入るなんて、と思っていた。それにうちには演劇部なんてない。


Aちゃんによると5年生でブラスバンドの後輩のFちゃんが演劇部を作りたくて校長先生に掛け合っているところだという。そのためにある程度の部員が必要であり、Aちゃんに声がかかったらしい。


でも人前に出て演技とか恥ずかしいしそう思って断るつもりでいた。しかしAちゃんは「別に出なくても裏方でいい、私は衣装を作りたい!」と言う。 Bちゃんも衣装を作るというのに賛成した。 Cちゃんは私に「我々は文章書くのが得意だから台本を書こう」と持ちかけた。役者には興味がなかったが、たしかに物書きになりたかった私は台本を書くのなら是非やってみたい!そう思って承諾した。


それからはエロトークをやめて演劇の話をした。AちゃんBちゃんはどんな衣装を作りたいかを考え、可愛いドレスを作りたいという話になった。せっかく作るなら自分たちも着たいということで役者もやりたいという話にもなった。Cちゃんと私もその衣装に合わせた話を考えた。当時西村京太郎を好んで読んでいた私がどんな話を考えたのかは覚えていない。


しばらくしたら周りにも話が回り、4人以外にもやりたいという人が現れた。5年生にも何人か部員希望が増えたらしく、このままなら実現しそうだという話になった。


そんなあるときだった。教室の外からM先生が現れ、我々4人の名前を叫んだ。「来い」との声に4人は怯えて外に出た。うちの小学校は特殊なオープンスペースだったため扉がなく、廊下に出されたら全クラスから丸見えだった。


ただ我々は何かやらかした記憶はない。なんだ、とみんなが思った。横一列に並べられた4人。めちゃくちゃ怖かった。


M先生は言った「お前ら演劇部作るらしいな」なんだろう、先生も入りたいのかな。いや違う、先生は確実にブチギレている。なんでだ。


M先生の話によると、Fちゃんが校長先生に演劇部を作りたいという話をしたそうで、そこに我々の名前もあった。どうやら担任や学年主任に相談もなくいきなり校長に直談判に行ったという事実が良くなかったらしい。信用がどうたらこうたら、会社だと社長に直談判するのはどうたらこうたらという話をされたけどいまいちピンとこなくていつまで経ってもなんで怒られているかよくわからず泣いた。


私は途中で勇気を振り絞って言った「でも5年生がやるって言ったことで、私たちは演劇部を作るなら入りたいと言っただけ」「6年生が5年生のせいにするんか!」M先生の罵声で終わった。


でも事実、我々は、少なくともわたしは演劇部を作る話はすでに進んでおり、校長先生から「とりあえず部員を集めてきなさい」的なことを言われて部員集めをしていると思っていた。しかしどうやらFちゃんは独断で動いていたらしく、部員が集まったところでやっと校長室に直談判に行ったらしい。そこまで責任を負えと言われても知らない。そもそもAちゃん以外はFちゃんと会ったこともなく、同じ部活の私もほぼ関わりがない。ただ演劇部を作りたいという後輩を応援しようとしただけだったのだ。


M先生は怒りながら順番に我々を突き飛ばした。わたしは3番目くらいだったのでどのタイミングで突き飛ばされるのかめちゃくちゃ怖かった。かなり力が強くてよろけた。後ろの様子はわからなかったけど多分3クラス全部がこっちを見ていた。


怒られ終わって教室に戻ると担任が少しだけ慰めてくれた。しかし担任からも「そういうことは担任として教えてほしかった、残念だ」みたいなことを言われた。今なら「社長に直談判」のヤバさはわかるが、それと「校長に直談判」が小学生の行動として同じくらいヤバいのかは未だにわからない。校長先生に対しての学年主任や担任の立場の問題だったのかなぁと思う。


我々はというと突き飛ばされたときの私の顔が変だったという話なんかを面白がり盛り上がっていた。みんな泣いていた癖にアホ小学生である。


その日家に帰って親にその話をした。理不尽だという思いはあったが、大事にしてほしいわけでもなかったので「ま、しゃーないね」みたいな話で終わった。


しかしその日、母の元に電話が来た。PTA会長の親だった。どうやら私以外の3人の親の誰かが突き飛ばされたことを体罰だと問題にしたらしく、PTA会長の耳にまで入り、学校に連絡することになったらしい。


翌日、我々は校長室に呼び出された。校長室のソファに腰掛けると、校長の他に担任・M先生がいた。


M先生は頭を下げ「カッとなって突き飛ばして申し訳なかった」と言った「ただ自分たちに話してくれなかったことが悲しかった」的な言い訳があったような気がする。担任も突き飛ばされたのを見ていながら庇うでもなく児童の味方をしなかったことを謝った。面白がりの我々は心の中でニヤニヤしながらそれを許した。「すごいぞ、あのM先生が頭を下げた。PTA会長すげー」みたいな感じで思っていた。


しかし結局演劇部設立の話は立ち消えになった。もしかしたらそのあとできたのかもしれないが、私たちの代では少なくともできなかった。ちなみに私のすぐあと弟が入学したが演劇部の話は聞いたことがないのできっとその後もできなかったのだろうと思う。そこだけは悲しかった。


まあ我々のなかではちょっとした笑い話だったのだけど、どんな演劇を作ろうと考えている時がものすごく楽しかったので、その話ができなくなったのは寂しかった。



今考えると部活を作りたい!となって部員を集めて、校長先生に直接相談に行くことが、小学生として問題だったのかと疑問に思う。校長先生に直接お願いするのはよくない、というのは小学生として知っておかなくてはいけないルールだったのだろうか。


例えばいじめがあったときに担任じゃなくて直接校長先生に相談に行くのは担任としては少し悲しくなるのはわかる。しかし、子どもにとって校長先生が最も話しやすいと感じていて校長先生に相談した、ということも考えられる。悲しい気持ちになりこそすれ、そこで激怒する気持ちがわからない。


そもそも我々は直接相談に行った張本人ではなく「部活を作りたい」という後輩に名前を貸しただけだ。校長先生に直談判に行くことを指示してもなければその後輩と会ってすらいない。このことは結局「5年生のせいにするのか」という言葉で掻き消されてちゃんと説明できてないままだ。このとき我々に責任は本当にあったのか。


そして結局演劇部は作られなかったがそれについての話はどうなったのだろうか。説明はないままだった。


体罰については謝罪を受けたのでいいとして、この辺は小学生のときから疑問に思っていたが大人になってもやはり疑問なままだ。


もうひとつ大人になってひとつ気になったことがある。


それは校長室に呼ばれたことだ。我々は校長室のソファに座り、先生に頭を下げさせたことを半ば武勇伝のように思っていた。とはいえみんなに触れ回ったりはしていない。


我々が怒られたのは6年生フロアの真ん中。みんなに見られながら怒られ、突き飛ばされた。


しかし謝罪は閉ざされた空間で行われた。我々が謝罪を受けたことをみんなは知らなかった。


実は中学生に上がったとき、クラスの女子がこんなことを言っていた「そういえば小学校のとき演劇部作るとか言ってみんなの前で怒られてなかった?」


我々はたしかに謝罪を受けた。しかしみんなのなかでは「あいつらなんか変なことして怒られてるわ」という印象だけが残っていた。


みんなの前で怒ったならみんなの前で謝罪すべきだ。と、今考えると思う。


まあ先生は体罰について謝罪したのみで、怒った内容については特に訂正されなかったのでそこは誤解というわけではないのかもしれないが。


まあこんな感じで演劇部はできなかったのだが、これってどうなんですかね?この話他のみんなに喋ったことが実はあまりなく、我々も笑い話に昇華したため理不尽を口にすることなく終わったんですが、今考えても怒られることだったのかなと思う。


ちなみにファミマにもスティックのチーズケーキはあるのでとてもおすすめです。



鼻水が止まらないのでそろそろ冬が来ると思います。

副反応なんて、なかったんだ


あなたのストレスはどこから?


ちなみに私は胃からです。


私は父の家系が胃が弱く、祖父も胃がん経験者です。


早期発見ですぐに治してしまわれましたが。


父も胃潰瘍経験があり、激胃弱家系です。


そんなわけで夏に胃薬を買った。


小林漢方胃腸薬といったやつだ。


なぜこれを買ったかと言うとポイントがたくさんもらえるらしいから。


漢方というと苦苦なイメージだったけど苦くなかった、飲み込むから。


一応ぺろぺろもしてみたけど大丈夫だった。




話は変わるが、私は割と肌が綺麗な方で、高校時代は大したスキンケアもしていないし、慢性的な睡眠不足だったがニキビなどできることがほとんどなく、褒められたものだった。


大学に入って食生活が少し乱れたせいかたまにできた。でも目立つところにはほとんどできなかった。


今、私の頬を侵食する大きな物体はなんだろう、この左の頬を。


顔がぶつぶつとしているのが気持ち悪くてマスクを外したくないし鏡を見たくもない。


なんだこの顔は、そんな気持ちだ。



こちらに来てなぜか5キロ以上は痩せたのだけど、あれからその体重がキープされている、なんでだろう。


それなりにご飯食べてるつもりなんですが、胃が小さくなってそれに順応してしまったのかな。


まあ度々胃が痛むので食べられない時もあり、それを考えると妥当なのかもしれない。


こちらに来て体重が減って、腹筋の筋が見え始めた以外にも割といいことはあった。


例えば、鼻炎が起きないこと。


花粉症はたしかに東京にもあった。しかしそこまでひどくなることなく、なんなら高知にいたときの方が辛かった気がする。山が近かったからね。



基本的に春や秋、動物によるもの以外の鼻炎は体調不良によるものであり、その多くは睡眠不足のせいだ。


私の場合は鼻炎が起きると、鼻からひっきりなしに水が流れてきて、鼻をかみ続けなくてはならない。そして鼻を噛むたびに鼻周りが赤くなる。


鼻が詰まり、くしゃみも異常な音がする。ボン!みたいなくしゃみが出る。人が振り返る。


頭が回らなくなり、座っていてもしんどい。


そんなわけで仕事中になると何もできず、テスト中になると点数が落ち、薬も飲むが、寝る以外の解決策はないのだ。


普段は2ヶ月に一回くらい炎症が起きてしまい、それはもう発作のようになっていた。


箱でティッシュを持ってき忘れたときには地獄で、トイレに頻繁に行きトイレットペーパーを拝借するといった次第だ。


それが今年は仕事中や休みの日でさえも起こらなかった。花粉症の時期にすら一日あったかもしれない、くらいだった。


なぜか。



それは睡眠がうまくいっているからだ。


この原因の多くは睡眠不足である。


テスト期間に多く起こるのは寝ないで勉強をするからで、そのせいで炎症が起きテストに集中できないといった経験を何度もしていた。



私は何を隠そう真っ暗になるとなんか怖いなって思ってしまう(可愛い)


小さいときから薄明かりで寝ていたせいであろう。


今の家の電気にそういった機能はないので、ライトを買って枕元につけた。


一台目は100均の電池式のもの。これは電池の消費量が異常だったのでやめた。


次に1000円程度の撮影用ライト。卒論指導などでオンライン授業することもあるし、綺麗に写す必要があるかもしれないと買ったが、撮影にはあまり向かず、専ら夜を照らしていた。


コードが断線したので捨てた。


それで3台目が、恐竜ちゃん。(さしもしらと名前をつけた)

なぜ恐竜ちゃんのライトを買ったかというと、中学のときに私が作ったキャラクター「さしもしら」に似ていたからである。


さしもしらは「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」からきている。


ちなみに鳴き声は「まにまに」でこれは「このたびは 幣も取りあへず 手向(たむけ)山
紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに」からきている。


これらから完全に古典の時間の落書きだということがわかる。


さしもしらは部活に持っていったら割と後輩の間でも人気になったので後輩に描いてあげたりしていたような気もする。


で、このさしもしライトの機能に30分タイマーというものがある。


30分経つと自動で消えると言ったものである。


わたしはこれをつけて寝ていた。


そうすると大抵付け直すことなく睡眠ができていたのだ。つまり、布団に入って30分以内に眠りについたということである。


寝つきの悪い私からするとさしもしらのお陰でここ最近はよく眠れているなぁと実感できた。



しかし、最近眠れなくなってきた。2時や3時になっても寝付けず、いつも5分しか見れず寝てしまう動画を何本も見て、何度もさしもしライトが消えた。


早く寝ようと0時前に床についたのに4時を回った。


本当に寝れないときは0時に寝ても12時をすぎることもあったけど、それにしても5分程度で寝ていたのに4時間とは困ったものだ。まにまに。




最近ワクチンの接種が完了した。これをフルチンというらしい。


今回は副反応に悩まされることもほとんどなく、無事だった。


副反応のなかで37.3℃程度の微熱が少し出たが、それほど問題ではなかった。


しかし、2回目の接種から3日ほど経ったころ、私はまた発熱した。37.4℃。直後の副反応よりさらに高い。もう少し上がると仕事に行けなくなる、と私は焦った。


しかし、3日経って、今更副反応がくることがあるのか?おかしい。


そういえば1回目も発熱したのは翌日の夕方。副反応にしてはかなり遅い。24時間以上経っている。


2回目はその日の夜だったが、実はその発熱した時間帯、私は全てにおいてストレスを感じる作業をしていた。


あれ、もしかしてこの熱、副反応ではなくてストレスのせいさせいさ



ストレスで熱が出るのかという点においてですが、出ます。


私は母親が入院しているとき、入り口で高熱が出まくり病院に入れず、泣きながら何度も測り直すということを繰り返した。


そのときは体調が悪くもないのに37.8℃くらいまで出て、それを受付に持っていくときの心境といったら。


違うんです、しんどくないんです、熱はないんです!!さながら嘘発見器にかけられた犯罪者のような気持ちだった。



そんなわけでストレスがすごい!!!


ということを言いたかっただけなのですが、ストレスで発熱したのはあれ以来だったのでびっくりしている。


もしかしたら副反応もあるのかもしれないが、少なくとも2回目の3日後のやつはおかしいと思う。


もしかすると、私は全く副反応がなかったのかもしれないとすら思うのだが。


とりあえず仕事が昼からとはいえゴミ出しに起きてそのままダラダラする感じで過ごしている。


漢検が近づいているので勉強に熱を入れているが、そんなことより卒論をしないといけないような気もしてる。


その他色々と考えていることはあるが、何事も考えられなくなるほど疲れ、9月の休みはほぼ家でダラダラと過ごしてしまった。


10月はもう少し頑張ろうと思う、とりあえず、漢検を。


ワクチンも打ったのだから、もう少し外出をしてもいいだろうか。



わたしは、10月は嫌いなのだ。






死が価値を生み出してしまうことに関する考察


死ぬことって結局ひとつの価値を生み出してしまってるよね


あ、前回の続きから失礼いたします。



たとえば尾崎豊って今も生きてたらどんな曲書いてたんだろうか


バイク盗んで走り回るとか、校舎の窓ガラス壊すとか、そういうのは昔だったらとても共感を呼ぶのかもしれないけど今だとなかなかない話だ。


もうしばらくすると「え、なんでこんな犯罪を曲にしたの?」みたいな反応になることもあるかもしれない


さて、今も尾崎豊が生きてたら、TikTokで流行るような曲を作ったのか、未だにあの頃の非行少年を歌ったのか、現代の非行少年を歌ったのか


現代の少年うっせぇわ、みたいな感じの曲作ったのかな


もしかしたらいつの間にか音楽やめてて、一発屋扱いされてた可能性だって否定はできない


去年はそんなことを考えていた


もし尾崎豊が生きていたら、尾崎豊はどんな風に世間が扱っただろうか、と


ただ尾崎豊に関しては生前から社会現象になるような人気だったはずだから、仮に生きてて今いい曲を書けてなかったとしても、なんかやらかしてたりしても、一発屋として曲が歴史には残り続けただろうと思う



この間映画を見た


フィッシュマンズ


とあるバンドのドキュメンタリーだ


わたしはフィッシュマンズを聴いてはいたがそこまで詳しくはなかったので、映画でいろんなことを知った


フィッシュマンズというバンドは伝説の、すごいバンドだとつい思っていた


ただ、彼らはとにかく売れなかったのだと知った


とは言ってもCD、バンド全盛期と言っても過言ではない当時、今で言ったらかなりの枚数を売り上げていたとは思う。あれで売れてないと言ったら怒られてしまうんじゃないかと思うほどに


ただ先述したように時代が全盛期であったことと周りの大人の期待、本人たちの生活、ということを考えるとなかなか売れなかった、というのが正解なのかもしれない


実際映画の中でもそのような表現がされていたので売れなかったという表現を用いるが、これは決して彼らを落とす意味ではなく、たとえば先述したような尾崎豊などと比べて社会現象にまでならなかった、と言った意味と捉えてもらえるといい


わたしの生まれた年でもある99年、フィッシュマンズのボーカル佐藤伸治さんが亡くなった。


作曲はほとんど彼が行っていたこともあり、これによってフィッシュマンズの曲は二度と新たに作られなくなったし、本来の声で歌われることはなくなった


「売れなかった」彼らであったが、今、そのバンドのドキュメンタリーを見に当時のファンだけでなく、私のような当時を知らない若者が映画館に集った


もし、今も彼が生きていたらどうなっていただろう


どんどんと減り続けたメンバー


最後は2人にまで減った


最終的に誰もいなくなってしまったかもしれない


売れないまま、今も曲が生まれ続けているのかもしれない


音楽をやめてしまったかもしれない


(もちろんその後社会現象となった可能性もあるが


そうしたら、今、映画はできていたのか


音楽は我々の世代に、そしてそれより下に、受け継がれていたのか


その人が亡くなるということはもう二度と見られないということであり、新たなものは生まれないということ


単純に考えると希少価値が上がる


その人の遺志がわからないため、どこまででも解釈のしようがあり、その人を忘れまいと、その功績を忘れまいと周りが動く


ふつうに宣伝をするよりも広まり、親しまれやすくなる


そんな感じで死というものは一種の「価値」を生み出してしまう


他にもなくなる、ということは「劣化しない」とも言える


死に限らず、バンドの解散などは「落ちぶれた」や「昔は良かった」と言った論争すら排除してしまう



話を変える


いじめ、パワハラ、誹謗中傷。しんどいからやめてくれと何度声をあげてもなかなか響かないが、人が一人死ぬと話が変わる


つらかったのだろうと理解され、相手を責める


そんなことするなら学校に行かなきゃ、仕事を辞めれば、早くに相談すれば良かったのに


学校に行かないと勉強がままならない。勉強ができても学校に通えないと大卒の資格すら取れない場合もある


高卒の引きこもり、自業自得だなって思う人がきっと多い


同情してくれてもちゃんと学校に通って卒業して仕事してる人と比べたらやはり差ができてしまうだろうし、それを掬いあげるひとがどれくらいいるか


仕事を辞める、辞めてよかったと言ってくれる人がどれくらいいるか、そのあとの生活を面倒みてくれる人がいるか


学校に行かなくて、仕事に行かなくて、何もできなくて、人に頼って、迷惑かけて、その罪悪感をどう打ち消すのか


死ぬことで自分は解放され、同情され、相手を責める流れにすらなる


なんて簡単に


死は価値を持っている



わたしが言ってもいいのかわからないけど死は価値を持ってはいけないと思う


でも死なない方がいいことなんてどれくらいあるんだろう


悩んだときやつらいときに、死なない方がいいことってなんなんだろう


死んだら成仏できないとか、後悔するとか、死の瞬間を何度も繰り返すとか、死後の世界にならないと「死ぬデメリット」がわからないのか


まあそれでも生きてても死んでてもダメっていう結論にしかならなくて、そうじゃなくて生きてるだけで偉いよねっていうことをもっと大事にしなきゃいけないと思うのだ



生きてるだけで偉いよね、とは決して「生きてるだけでいいんだよ、こんな簡単」と言っているわけではなく「生きてるってことはつらいんだよ、それだけできるのもすごい」っていうことであり、それは多くの人ができていることでとても難しいことなんだということを多くの人が理解しなくてはいけない


生きていくのはしんどい、しんどいことをやってるんだ、生きてるだけで


まあ気楽に生きてる人もいるだろうけどね、わたしはそうじゃないからね、このストレスを受け続けていたらいつかは、じゃなくてきっともうすぐに死んでしまうだろうけど


まあいつ死んでも大丈夫って感じで生きてる


これは諦めというのもあるかもしれないが、雑巾を絞る感じで生きてる感じだ


もうちょい水、出るかもしれないから、絞ってみるかってな


バケツの水が真っ黒になりそうです




世界をそっと美しく


酒飲んで何回か書こうとしたけどだめだった。


コントをやりたかった人がやってみて、ってことと、最近のお話として教育の難しさと生死の話までいけたら書くね。絶対長くなるじゃんウケる。

 


元々自分はコントを書くことがしたいと思っていた。そのコントをやる舞台を全体的に演出したい。音楽、照明等。なんなら余裕があるなら音楽作ったりしたい。全部を考えて作りたい、と思っている。



だから別に自分は出なくてもいいかなと思っている。別にお笑いをやりたいっていうわけでもなかった。コントにもコメディでないものもあると思っているので、それ以外のコントもしたかったりして。



じゃあなんでお笑いをすることになったのかというと3点ほど理由がある。前回か前々回か何度か少し話したので重複する部分があったらうざいよね、ごめん。



まずひとつめは出演者としての経験により脚本や演出の説得力が上がると思ったから。



ふたつめが最初の一歩として入りやすいと思ったから。フリーライブなどがありすぐにはじめられる。みなさんも、お金さえあればできるよ。



演劇からどう始めるかそもそもよくわからなかったけど、結局単独ライブスタートみたいなことでしょ、難しくない?しかもこの時期に。人脈や経験を手っ取り早く得られるかなと思った。今のところ全然人脈ないけど。



みっつめがお笑いはコントの本場だと思ったから。大会もあるし、コメディの場で勉強するというのはとても有益だと思った。



ほんとにやりたいこととしても単独ライブできるようになれば演劇に近いことはできるから、それでもいいかなって。



しかしながらやはりお笑いとしてのコントと演劇としてのコントは全く違うものな気がする。

  


あとそもそも出るのがそんな向いてないなって思う。それは元々思ってたことなので何も不思議はないけど。メンタル面のみならず人としての自分の魅力のなさを感じている。人がついてくるような人間じゃないので、作る側としてもこの人をどう生かしていいかわからん。



本来は自分がいいと思う人をよりよく見せるために考えることが得意なはず。それを自分には適用することはできないのかな。



あとはもうとにかく余裕ぶってるけど余裕がない。時間もメンタルもまずまずやばい。やりたいことが多い。時間も体力も足りない。漢検準一級勉強してる場合か。でもとにかく気持ちを強く持つ以外のやり方を知らない。自分、不器用なので。



でまぁコント書きたいっていいながらM-1が近づいてきて漫才書いてる。意外と漫才の方がやりやすいネタの作り方してるとは思っていたので楽しいは楽しいのだけど。やはり演者としてはまだまだなのは経験なのだろうが、人としての魅力はこれ以上底上げできる自信がないな。なんとか、ギリギリでも頑張りたい。






最近の出来事。夏休み入ったので仕事が多い。今までは昼から勤務だったけど最近は朝から仕事。6時起きで弁当作って仕事行く。でもクーラー入った部屋で子どもと将棋指してる時間が多いと考えるととても楽かもしれない。大変だけどありがたい。18時くらいまで仕事なのだけど帰って即寝てしまう。でもそんなにつらくはないかな。これは若いからだと思い込んでいる。てか多分普通に仕事してる人たちの方がすごいもんきっと。



でもバイト先には言ってないけど昼で帰ってネタ合わせしたり、休みとってライブ行ったりしてる。あんまり休みの日とかはない。空いてる時間、毎日漢字検定の勉強をする。ほんとは卒論もする。最近卒論進めてない、大丈夫かな。



基本的にはお仕事楽しいんだけど子どもを怒らないといけないときもある。私は怒鳴る先生はみんな感情に任せて怒ってるだけの人たちだと思ってたけど小学校の先生は演技してることもあるって聞いた。たしかに自分も今怒るとき演技してる。だって子どもが廊下走ってもなんもイライラはしないもの。でも危なくて怪我されたら困るから声出すって感じ。



こないだ2人で追いかけっこしてた子に注意したら私に反抗したのになぜか相手の子に手を出した。それで怒らないといけなくなった。ちょっと障がいのある子みたいで、話聞かないでわたしにも手を出すし、暴言を吐き、唾かけられた。正社員の先生がきて代わりに注意してくれるんだけど、怖めの先生でかなり怒鳴る。ドナルドダック。今こういうのいらないね。



反抗するからなかなか話聞かなくて長引く。手を出した子だけじゃなく注意してくれた先生にも謝らないとって話になって、わたしにも謝罪する流れになった。正直めんどくさいからいいんだけどそういう指導だったから手を出したことや唾はいたことも謝ってもらうことになった。けどなかなか謝らないでまた先生登場。そこでも時間かけてやっと謝ってもらって、なんとか解決した。



したんだけど、その先生に「話が長い、集中力がない子だから簡潔に」「腹がたったタイミングで怒鳴っていい」「もっと感情出さないと伝わらない」などと指導の指導をされた。



たしかに一気にこれもこれもってやったこと確認して、それ謝ってってなったら拒否してって繰り返したりしてたから、一つずつ謝らせたら良かったなぁとかは思っていて、若干反省した。



だけど感情が出せないのはなかなか仕方ない気もする。私はいつからかマイナスの感情しか出せないのだ。喜怒哀楽が哀哀哀哀って感じ。まあでも演技で、という意味であればもっと演技しないといけないのかもしれない。 



でも感情的にカッとなるところで怒鳴りつけなって言われたのはやっぱちょっと違和感。



元々私は高校教員志望だったから、そのときに教員としては怒らない教員になりたかった。うちの高校はそれなりだけど進学校だから絵に描いたような不良はいない。基本進学してちゃんと就職したい人が行くところ。元々怒られるのが嫌いなのもあり、怒られなくてもやるから、って思ってて、特に「怒鳴る」などの威嚇行為をしなくても指導ってできるんじゃないかっていうことを勝手にテーマにしていた。



もちろんそれは比較的頭の良い高校での話で、小学校や中学校だと分けが変わってくることは想像に難くない。



だから怒るとき、声をあげることもある。でも他の見てる子がびっくりしないようにっていう配慮はあってあまりにびっくりするような声の上げ方はしない。腹が立ったら怒るのではなくて、例えば「同じ行為を何度か注意しても直らない場合」はさすがに声をあげる、「手を出した場合はとりあえずそのことを謝らせてから話を聞く」などというようにしている。



「カッとなったら怒鳴っていいよ」って言われて私は少し狼狽えた。なんて言っていいかわからなくて。そしたら先生が「何回かそんな場面あったでしょ?」って言う。正直まあ唾かけられたりして嫌な気持ちにはなったけど、別にカッとはしなかった。してもそれは抑えてから叱らないといけないと思っているし。それで戸惑い続けていると「先生心広すぎるよ、私が心狭すぎるのかもしれないけど」って呆れたように言われた。心が広すぎて怒られることってあるんやな。



個人的にはその先生が子どもに「バカなの!?」

とか「そんなの赤ちゃんだよ、◯歳には見えない3歳くらいだよ!」みたいなこと言ってたのちょっと良くない言い方なんじゃないかなって引っかかった。



てか怒ってたのに怒られた私はめちゃくちゃ凹んだし泣きそうだった。ちょっと涙目。怒られるのも怒るのも嫌いだから出来るだけ怒らないようにしてるのに。手を出したとしてもそれは謝った上で、とにかく話を聞いてあげよう、否定しないであげようとか色々考えて指導してるの考えすぎなのかな。



私はずっと気にしいなのでちょっと注意されただけでも凹む。7月はメンタルが疲れてしまったのでその先生に「こうして!」ってこと言われただけで家でめちゃ泣いてしまった。そんな気にしいだからこそ注意の仕方にも細心を払い、でも払いすぎていたのかもしれない。自分の繊細さからくる気の遣いが全てに込められていたから、あの注意した後の「話長い!」っていうのはもはや人格否定だった。



感情がないのも起伏をつけると疲れちゃうから。ただでさえ気分が落ち込むのに、頑張ってテンション上げると反動でそのぶん下がる。私がもしプラスの感情もうまく出せる人だったら双極性障害なっちゃうよ。私にプラスの感情がないからギリギリ躁状態を回避しただの鬱で済んでいるから生きてるんだから。これでハイになったら死んでるよ。感情出さないことでめちゃくちゃに生きてるんだよ、自衛なんだよ。



でも子どもってほんと気にしない。怒られても「はーい」って感じで本気で凹んだり気にしてそうな子ってあんまりいない。そもそもそういう子は注意されるようなことしないかもしれないけど。



私はちょっと注意されただけで気になる。走ってて「危ないよ!」ってちょっと声上げられたらきっとその日はずっと引きずると思う。でもみんな忘れてすぐ走る。私ももしかしたらそんなこと忘れて走りまわっていたのだろうか。



少なくとも私の記憶では昔からそうだったからずいぶんと生きにくかっただろうと思うと悲しくなった。よくここまでやってこれたね、えらいよ。



でも逆に今後も生きにくいだろうなって思ったのでこれがあと何十年あるんだろうと思うと途方もなかった。いや、今年中に、明日に、今だって死ぬ可能性あるわけだけど。



まあでもどうやってもきっとしんどいので無理してでも頑張るしかない。どうせこんなにストレス受けて生きてたら長く生きやしないんだから、明日死んだらそれはそれで仕方ないってことでいいんじゃないかな。元々死ぬ前にやりたいことやり始めてる結果が今なんだし。



もっと気にしないで生きたいけど多分そういうの無理だから。長く生きようとしてる人たちより私は今を生きてるし常に死を見て生きてるよ。気にしながら全力で生きて死ぬんだよ。毎日、明日死んでもいいって思って生きてるよ。明日もまだ生きてると思って生きてるやつより絶対一生懸命死んでやるよ。



本当は近況として映画フィッシュマンズ観に行った話から死の価値について論じたかったところだけど長くなりすぎるといけないからやめよ。また今度。



拝啓 15の君へ


6月、私は漢検を受けた。


私が初めて漢検を受験したのは中学2年生のときだった。


周りの友人が受けるという話を聞き、なんとなくで流されて受けた。


当時漢字を含めた国語科が得意だった私は三級をほぼ満点で合格した。


その頃塾に通っていた私は、塾の先生から過去問の資料などをもらい熱心に勉強した。


それが楽しくて、友達と次は準二級を受けようねと話をした。


しかし翌年、漢検が学校で受けられる制度がなくなってしまった。それでも本屋で申し込むと受けられるのだという話を聞き、友達と一緒に申し込み、勉強した。


 


その友達こそがアンジェラである。


アンジェラは部活のときに先輩にアンジェラアキに似ているということから付けられたあだ名であり、その響きの良さからみんなが呼びたがったため定着した。


アンジェラは変形を重ねアンジェリーナジョリーナジョリーナとなり、ジョリジョリと呼ばれるに至ったこともあった。


アンジェラと私は中1のときにクラスが同じになったことで出会った。その頃のアンジェラと私は最初のテストで学年順位が9位と11位の優秀な関係だった。


中学でアンジェラは吹奏楽部に入り、私も同じ吹奏楽部に入った。


私は小学校のときから金管バンド部にいたのでそのときと同じパーカッションパートを志望しており、アンジェラはピアノ経験者でその因果関係は知らないがトロンボーンを志望していた。


しかし2人ともその器から漏れ、謎のダブルリードパートにぶち込まれた。


当時ダブルリードはすこぶる人気がなく、12希望まで出す中で1112希望にオーボエファゴットと書く者が溢れた。


我々はそれを悲しんでいた先輩を思い、少し順位を上にしたとても優しい心持ち主なのだ。


しかしその優しさが災いし、希望楽器を外されたとてもとても悲しいモンスターなのであった。



その頃私は学研教室に通っていたがそこでの待遇に不満があり退会を考えていたところ、アンジェラが行っていた個人塾に誘われ、塾も同じになった。


クラス、部活、塾。そのどこにもアンジェラがいた。中学2,3年目クラスが離れても部活と塾でほぼ毎日会う日々が続いていた。



幼少期からお笑いが好きだった私だが、コンビという関係性についてはよくわからなかった。


一緒に仕事をするし仲が悪いわけでは決してない。家族より一緖にいる。でもなんとなく、隣に並んでいるのを見られたり2人きりになるのは気恥ずかしい。そういう相方という特殊な関係性だけはずっとよくわかっていなかった。


アンジェラとはずっと仲が良かったが、音楽室に集まるとき隣に座るのは恥ずかしくてなんとなく距離を置いた。


2人きりで遊ぶときはなんとなく恥ずかしかった。


仲いいよね、と言われるのがなんとなく嫌だった。こういうのを相方というのかもしれない、そう思った。我々は、少なくとも私から見たらそんな関係だった。


同じパートであったこともあり、方向性でぶつかることもあったが、それが翌日まで尾を引くことはなかった。


アンジェラは見た目も服装もオタクで、実際にも激しいアニメオタクだった。でも眼鏡を外し髪を解くと割とアンジェラアキになるのが面白かった。




みなさんは思っただろう。漢検の話はどこへ行ったのだろう、と。


話を戻すと中3のとき、我々は2人で部活に行かず漢検会場に向かった。学校以外での初めての受験。


会場には3級以下を受ける小さな小学生たちもいて、先に帰っていくときに「商店街のしょうってどうだっけ?」と話していたのを未だに覚えている。


受け終えた2人はそのまま部活に向かった。休日の部活は体操服や部活で作ったTシャツを着るのだが、受験から直で部活に向かった我々は制服だったのが少し誇らしかった。


結果として準二級は2人とも割とギリギリで受かった。2人で次は二級を受けようと話し合った。


私はやる気満々で塾の近くにあった本屋に寄り、二級の本を買おうとページを開いた。そこで突然のレベルの上がり方に唖然とした。


読み書きは覚えられるとしても部首が意味がわからなさすぎる。こんなものできるか!と思った。


私があきらめたあとも、アンジェラは1人果敢に挑んだが、私が知ってるだけで2回は落ちた。私とレベルの近いアンジェラが落ちたのを見て私はよりやる気をなくしていった。


アンジェラとは高校も同じだった。高校でも吹奏楽部に入った。アンジェラはファゴットを続け、私はコントラバスでの低音パートを経て念願のパーカッションになった。


しかし高校の吹奏楽部は中学のときとは明らかに雰囲気が違った。


同期は陽キャが多く、先輩の圧は強い。2年はガチ勢と高校から始めた勢での対立が強く、そのせいで精神的に病み部活に来られなくなる先輩もいた。


私は郷に入ってはなんとやら、なんとなくでそれに馴染みつつ活動を続けていた。


しかしアンジェラはそういうことをしない人だったので浮いていった。最初はそれを心配し、仲介のために、アンジェラをイジって「イジってもいい人なんだよ」というアピールをしてあげたり、いろんな情報を漏らしたりした。


それでもアンジェラはどちらかというとそれを嫌がって馴染もうとせずにいた。


3年の先輩が引退する打ち上げのとき、私は低音パートの先輩とご飯を食べるのを楽しみにしていた。


しかしアンジェラのパートは私のいた中学時代から変わらないメンバー。男の先輩とアンジェラの2人。


私はアンジェラと仲が良いというイメージだけで入ってあげて、とそこに放り込まれて、中学時代のダブルリードパートを再結成させた。


それもまた楽しくはあったのだけど、私は自分のパートとお別れができなかった。アンジェラが他に友達がいたら別のパートと合同でやったりできたのに。他に友達を作ろうとしないから私が巻き込まれたのだと思った。


アンジェラをこの場に馴染ませたい。そう頑張る私と頑張ろうとしないアンジェラで溝が生まれていった。


というよりも一方的に私が苛々し始めてしまった。アンジェラと私は同じような性格だが、新しい環境に馴染もうと努力している私に比べてアンジェラは努力しない。その影響が私にまで及んでいる。私はどんどんアンジェラといるのが嫌になった。


周りに仲がいいと言われるのが本当に嫌になってしまった。帰る時間をずらして一緒に帰るのをやめたし、喋ることもあまりしなくなった。顔も見たくなくなった。生理的に無理。離婚ってこんなふうに起こるのかもしれない。


念願のパーカッションパートになれたはずの私は、さらに馴染もうとパート内のいじられキャラを目指した。そしたらそこの先輩がイジるのがこの世で一番下手で、いじめに近い形になっていった。


前述したような環境の悪さもあり、私は部活を辞めてしまった。


アンジェラは「オーボエいないから戻ってきたら?」とか「文芸部とかいいんじゃない?」とヘラヘラ笑うだけで何か助けてくれたわけではなかったのでそれも少し腹が立った。


でも頑なに馴染もうと努力しないアンジェラは、なぜか同期に可愛がられた。それも悔しかった。


2人とも塾は続けてなかったし、部活でも会わなくなったし、1組と9組だった私たちはさらに距離ができた。




うちの高校は2年生からは習熟度の高い生徒は選抜クラスになる。2年の文系選抜クラスは2つ。高校に入っても勉強レベルの近いアンジェラと私はなんだかんだいってまた同じクラスになる可能性が二分の一にまで高まっていた。


私はそれを本気で危惧し嫌がったが、その予想どおりアンジェラと私は中1以来の同じクラスになってしまった。




最初私は頑なにアンジェラを避けていたが、ふと西村京太郎の話をしたときに「こんな話を聞いてくれるのはアンジェラしかいないな」と思い、また受け入れるようになった。


クラスでもアンジェラは変わらず、教室の隅の方で声が小さすぎて聞こえない者同士でつるんでいた。


それをまた生理的に無理に思うことはなかった。たまに喋る、適度な関係だった。




3年生になると選抜クラス2つが選抜と準選抜に分かれる。我々は揃って選抜クラスに入ることができた。


アンジェラは大学で県外に出ることを禁止されているタイプだったので地元の国立大学を目指していた。私は色々あったがそれより上のランクの県外の大学を目指していた。


そうして私はセンター試験で大爆死した。地元の大学すらも受けられなかった。アンジェラは地元の国立大学を受けられることになった。


私は地元よりもレベルの低い国公立を選んで受験した。確率はだいぶ低かったと思うが、なんだかんだ合格した。


アンジェラは地元の大学を割と余裕で受験したが、落ちた。地元にはもうひとつの私立大学しかなく、浪人を許されなかったためそちらに進学することとなった。


私の方がセンター試験の結果は明らかに悪かったのに、私が国立大学に進み、アンジェラが地元の私立大学に進んだ。おかしなもんだなと思った。


そこからは連絡もたまにしかとってなかったが、中学のときの部活のメンバーの4人で会うことがたまにあった。それとは別の4人組で会うこともあった。


USJに行くと、アンジェラは絶叫系が苦手なので女の子のように叫んだ。女の子なんだけど。


飲みに行くと苦手ではないのになぜかお酒は控えたりした。わざわざバスで来たくせに。こういう空気の読めないところも今や笑えるようになった。




あるとき、アンジェラは最近大学を不登校気味だという話をした。奨学金を使って大学に行っているのに単位が足りない、卒業できないかもしれない、と。


私はアンジェラを心配していた。


しかし4年になると卒業できなくなったのは私の方だった。人に会えなくなったのも私の方だった。


その夏。帰省してもほとんどの人と会えなくなった私が唯一会いたいなと思ったのがアンジェラだった。状況も踏まえて平日の昼間に個室でご飯に行った。


会う前に母親が亡くなったこととその影響で大学に行けてないことをあっさりと伝えたら、どう受け取ったのかは知らないけど割とあっさり受け入れてくれたように感じた。


現れたアンジェラは中学時代とほぼ変わらない見た目と服装だった。今までもたまに会っていたが、毎回さすがに髪を染めているだろうとか、眼鏡をコンタクトにしているだろうとか、服装が変わっているだろうとか話しては、あの頃と同じアンジェラが出てくるのが面白かった。


会うたびにもしかすると変わっているのではないかという期待と不安に襲われる。でもアンジェラは1人、あのときと同じ見た目で現れるのだ。


私はいつかあまりにも見た目が変わらなすぎるアンジェラに対して「妖怪なのではないか」という疑問をぶつけたことがあり、そのときもまたその疑問を口にしたが否定された。


そんなときだいたい「眼鏡の縁が変わった」ということを教えてくれる。サイゼリヤの間違い探しより難しい問題だと思う。



アンジェラはまだ単位が足りず、4年になっても授業が続いていた。内定はもらったが、もしかすると卒業できないかもしれない。また本当は東京でやりたいことがあるが、内定をもらったのはそれとは似つかない地元の小さな企業だと語った。


私は内定を持って、卒業するための単位も足りてはいたが、途中で就活も辞めて卒論も書いてないと言った。卒論のいらないアンジェラの私立大学を少し羨ましく思った。




ご飯を食べ終わり、電車で来た私は駅を目指そうとした。アンジェラは家の車で来たといった。そして「このあとどうする?」と聞いた。


それはさながら、童貞がこのあとお持ち帰りをしようとしている様子にしか見えなかったので私は吹き出した。そしてそのままを伝えた。


よくわからないみきゃんパークなるところに連れ込まれそうになったので近くの行き慣れたデパートでアイスを食べることにした。


アンジェラが車に乗せてくれるというので助手席に乗せてもらったが、その短い距離で私は三度ほど「危ない!」と言うことになった。


ヒヤヒヤしたが死んでも仕方ないなと思うとなんか生きてる気がした。こういう感じで自傷行為は行われるのかもしれない。




アイスを食べたその後、アンジェラは家まで車で送ってくれた。


家の近くでアンジェラが私を降ろすとき「実は色々悩んでいたから、会えてよかった」と言った。私も誰にも会う気力がなかったから、会えてよかったと思っていた。「でも自分のダメな姿で人が元気になってくれるならそれはもっと良かった」と返した。




私が教育実習でまた地元に帰ったとき、他の吹奏楽部時代のメンバーも交えて4人で会った。アンジェラはそのときも授業終わりにさらに授業の動画を聴きながらやってきた。




その後2月の私の誕生日に久々に連絡があり、そのときに卒業できる予定だと聞いた。入社の準備も整ってきていると。


それから無事卒業できたアンジェラは、入社が決まり、今は仕事をしながら、別の仕事を目指しているのかどうかは知らない。





……いや、漢検の話はどこにいったのかと。




実はアンジェラとの会食のときにアンジェラが漢検二級をとったという話をした。中学時代落ちまくった漢検に、大学に入ってちゃんと受かったというのだ。


それを聞いて、なんとなく悔しく思っていた。




それからしばらくして弟が冬休みの課題で漢検の勉強をしていた。私が中214歳のときにほぼ満点で受かった三級を高116歳にして受けていた。おっそ、余裕じゃん。しかも過去問でたまに合格点取れてなかった。めっちゃ馬鹿にした。


でもそれを見ていたらなんとなくまた勉強したくなった。


二級はもういいやと準一級の勉強を始めた。その頃授業も終わり、卒論も書いてない私はやることがなかったので勉強に打ち込んだ。


やることができたのは私の中では大きかった。


ただ引越しの準備の関係で勉強ができなくなり、いつのまにか出願締め切りになっていた。


わたしはひよって二級を受けることにした。ひよったとはいえ今更二級を受けるからには落ちるわけにはいかない。そう思うと勝手にプレッシャーは感じていた。


そして漢検を受けたのだ。







拝啓、15の君へ。


漢検二級、多分受かったと思います。


僕らが旅に出た理由


なぜ東京に来たのかという問題なだけでオザケンみたいにしてすみません。色々聞かれて答えようとしたのですがしどろもどろだったので書きました。じゃあツイキャスやらなきゃよかったじゃないの!


ひとつは元々関東での就職を考えていたからです。地元から観劇に行くのはめちゃくちゃに大変。できるだけ交通の便のいいところにいたかった。それに日本で言えば東京は芸術の街。そんなところで生活してみたかった。


あと就職したら仕事しながら演劇やったりしてみたいななんて思ってて、それにしても劇団の数の多い東京のほうがやりやすいところ見つかるだろうなって思ったのもある。


他にも、家賃高いとしても賃金高いほうが仕事やる気になるだろうとか、仕事の種類が多いとか色々。就職にしても東京近辺の方がいいのかなって思ってた。


ふたつめは単純に東京に住んでみたかった。色々あって死ぬかもって思ったときに最後にやりたいことのひとつが東京に住むことだった。だから住んだ。目的達成した、おわり。安らかに。


本当は実家かその近くに残って家族のサポートをしようと思っていて東京にはしばらく行けないなと思っていた。


でもしばらく家を空けて帰ってみたら父も弟も自分たちで弁当作って持っていけてて、家事もなんとなくちゃんとしてた。手伝うと声をかけてもさせてもらえなかったし、わたしは帰省しても洗濯物と洗い物と食費を増やしているだけだった。あれ?じゃあいらないじゃん!って思った。


父は医療従事者のため、わたしが法事等で帰省するたび仕事を休んでいた。申し訳な。今後も地元で家族に会いながら生活するならお笑いも音楽も演劇も何も見れない。2020年ほとんど何も見れずに過ごしたのに、また一年、いやあと何年こうなんだ、しんどすぎる。


だったら東京に来て1人汚染され隔離されるという捨て身の方法で劇場に行こう、ホールに行こう。


そんな感じでコロナ関係なく元々東京には来るつもりでいたし、コロナで来にくくなったとはいえ逆に来る理由にもなっていた。なので別に東京にお笑いしに来た!というわけでもない。



ただそうでもないとも言い切れないところがある。


(ここから長くなるので簡単に言うと中学時代の夢を思い出して、なんとなくやってみたくなったから、みたいなことだ)


元々中学時代のイキったわたしは演劇にハマり、脚本演出をして自分の舞台を作るのが夢だった。自分が出ることはどっちでもよくて、書いて演出をつけるのが夢だった。


そんなわけで吹奏楽部時代も後輩の曲紹介の台本を書いて振り付けまでやったりした。わたしがプロデュースしてやるから任せろ、と。その回は後輩がかなり可愛くて評判が良かった。ただものすごくイキっている。


高校で演劇部に入って演劇をやりたかったので私立は演劇が一番強いところを選んだ。勉強も学校も嫌いだったし、演劇をやりたかったので勉強する必要なんてない!とか言いながら塾に行って勉強していた。クソ怖じっててダサい。


そんなわけで頭もまずまずよかった。私立は演劇で選んだが、すごい頭悪いとこだったのかうちに来てほしいとめちゃくちゃに勧誘を受けた。来てくれるなら入学金も授業料もいらないと言われた。でも女子高で頭悪いところなのがなんか怖くて結局普通科の受かりそうな公立を選んだ。クソダサい、このときのわたしほんと嫌い。


高校は自称進学校と言った感じで、いきなり志望校を聞かれパンフレットの請求をさせられた。目指していた大阪芸大しか知らなかったわたしは3年間大阪芸大からパンフレットが届き続けることになる。


高校に入ったらレベルが上がったこともあるのか、学校が楽しくなった。クラスも居心地がいい。給食のたびに叫ぶ女も私をいじめてくる不良女もいない。(正確には私をいじめていた不良の一人と同じクラスだったのでめっちゃ怖かった)


でも思っていた以上にクラスでの生活は楽しかった。野球部の2人に席を挟まれたのがきっかけでいじられるようになり、クラスのみんながあだ名で呼んでくれたり、そんなに仲良くない陽キャの女子も、友達いなさそうな陰キャの男子も話しかけてくれる、陽キャでも陰キャでもない奇妙な存在になった。


先生から授業中にいじられたり、野球部と一緒にボケたりもして楽しかった。(不良はなんか変な目でわたしのことを見ていたらしい、正直その人がクラスにいたことは最近まで忘れていた)


勉強も楽しかった。高校の先生は教えるのが上手い。サボったし寝てたけどそれでも楽しいとは思っていた。テスト期間は毎日学校に残って勉強した。学校が楽しい。そんなことを言うことになるとは中学時代思いもしなかった。


なかでも特に現代社会の先生の授業がすごすぎて、こうなりたいと思って教員になることにした。それは教育実習で帰ってきたときにもより強く思った。じゃあなれよ。


ちなみにそれまでは進学校で脚本家になりたいっていうのが恥ずかしかったので小学生時代の夢であった助産師を希望しているふりをしていた。危うく看護体験に行かされるところだった。


高校で演劇部に入るつもりだったのに友達にホイホイついて行ったらいつのまにか吹奏楽部になっていた。3年続けた中学時代ですらあんなにやめたかったのに。結局環境が悪くて1年で辞めた。そうして演劇やろうと思ったときには演劇部は部員一名(兼部でかつ映像見てるだけらしい)になっていて入ることを諦めバレー部のマネージャーになった。


教員志望で大学に入り、演劇をやろうとした。大学の部活・サークルというのはものすごい勧誘だ。宗教勧誘やマルチ勧誘が怖いと言われるが、勢いだけでいうとこっちのほうが怖いだろっていうくらいの怖さだ。新歓というが歓迎ではない、戦だ。一年生にして文化サークル長だったわたしが言うのだから間違いない。


そんな部活動紹介の場で演劇部に話しかけられたくてウロウロしていたのに一生話しかけられなかった。勧誘の立場にもなったことがあるが、あの場は誰が一年生で誰が二年以上かわからないから一年生かわからなくてもとりあえず話しかけてはチラシを渡す作業をする。わたしも二年時、勧誘している立場でありながら何回か勧誘されたほどだ。そんな場で声をかけられもしなかった。ウロウロしていたのに。勇気を出してこっちから声をかけたのに全然喜ばれなかった。兼部できるか聞いたら「本番前は毎日稽古だ」と釘を刺され、わたしが演劇部の部室に足を踏み入れることはなかった。


その後別のサークルでたまたま演劇人と出会ったわたしはその人から稽古の見学の連絡を受け、すぐに行った。ただそこの劇団のやってる劇にはあまり興味を持てなかった。それでも手伝いくらいはやってみようと思っていたら、見に行った舞台でその人が携帯鳴らして開いて光を放出しているのをみて連絡を絶った。あんな夜に光を放っていいのはホタルと星くらいだ。


二年時、入っていた軽音サークルを離れたわたしは劇団のオーディションを受けた。オーディション会場に向かうとそこにいたのは演劇部の友人と私だけだった。関西人、都会育ち、子役の経験もあり演劇部で1年過ごした男と経験ゼロの私。ふつうに彼だけ受かって私は落ちた。そのあとの演劇フェス的なのに呼ばれたけれど、その年は頭が爆発するくらい授業をとっていたので結局バタバタで返信もできなかった。申し訳ないと思っている。


そんなわけで演劇をやる機会を逃し続けてきたため、就職後に趣味でいいからやりたいなぁなんて思っていた。しかし、巻き戻して考えて欲しい。わたしは別に役者をやりたかったわけではない、脚本家になりたかったんだ。わたしはなぜ役者のオーディションを受けに行ったんだ?書きたかったんじゃないのか?実は本当にこないだまでそれを忘れていた。意味がわからない。


文章を書くのも読むのも好きで、文学を勉強したかった、演劇を勉強したかった中学時代。潔癖症で人と食べ物や飲み物を共有することや流し台の掃除ができなかった中学時代。最近そういうのがぶり返してきている。あれ、どんどん今退化してる?


死ぬ前にやってみたいなとは思った。でも脚本なんて結局書かないまま育ったし、できるわけはない。


死ぬ前の遺書みたいな感じで書いたブログはあまりにも暗すぎて出せなかった。あぁ、もう面白い文章はかけないのだろうなぁという状態だった。


2021年、あけましておめでとうと皆が挨拶をするなかで、わたしは一人、できなかった。喪中だし。そうでなくたってなんにもおめでたくない。でも挨拶をしないのも変だしなぁ。そんな感じで文章を綴ると、その時の私は今までの闇をほんの少しばかりポップにしてみせた。成長したな、と思った。


中学時代のわたしはブログをしていてそこで三題噺をやっていた。とはいえラバーガールのおふたりのブログがそんな感じで成り立っていたのをやってみたくなったからで、三題噺という言葉を知ったのは最近のことだ。授業中はそんな文章ばかり考えていて、誰も読んでいないと言っても過言ではないブログに物語を紡ぎ続けた。


どんなだったかは照れ隠しとかではなく本当に覚えていないし、ブログが閉鎖した今では読み返すことすらできやしない。


そんなことを思い出して懐かしくなった。あぁ、またやりたい。そんな感じでnoteを始めた。


やっていて思ったのはとにかく楽しい。今まで何もしていないことが罪悪感で、その罪悪感から体調を悪くして、体調が悪いから何もできなくて、そんな負のスパイラルに巻き込まれていた。


ただこれを始めると、今までただ見ていた文章もお笑いも、演劇も映画も、インプットのひとつになった。ツイートもブログもアウトプットのひとつになった。いろんな言葉を覚えたくて、漢検の勉強を始めた。勉強してるし、何かを考えている。そう考えたら体調がよくなってきた。


あるときランダムで出していたお題が難しくなって何も思いつかなくなった。元々ポンポンと出てきていたわけじゃないから少し自信を無くしていた。


ある日の寒空の下、交通量調査のバイト中、急に話が浮かんで休憩の時間にメモを取りまくった。会話だけ作ってあとで地の文をつけようとしたが、あまりのテンポの良さに地の文をつけたくなくなってしまった。そうしてひとつの脚本ができた。ショートショートとタグをつけていたが、これはショートショートというよりは、コントだな、と思った。


会話だけ、脚本の形式をとるとより書きやすくなった。と言うのも当たり前で、小説の難しいところはそこだ。地の文のない小説はよほど腕のある人の作品でもなければ笑われる。あぁ、わたしはダメな作家なのである。


そうしていたら毎回コントのようになってしまうので修正をかけた。笑いを減らしたり、地の文を増やしてみたがやっぱり脚本で書いてるときの方が楽しかった。


コント書きたいな、そう思いはしたが別にお笑いやりたいとは思わなかったので作家になりたいと思った。でも芸人さんはだいたい自分でネタを書いてる。あれ、コント書くだけの人ってそんなにいないのかな。


わたしのイメージでそういう人はだいたい芸人を辞めた人だと思ったので養成所の説明会のzoomに参加した。でもなんで辞めるために養成所入るんだよ、おかしいだろ。


そうしたら脚本家になるためのコースみたいなのもあった。これか、とまた説明会に参加した。


わたしは舞台脚本以外に興味はなかったので、舞台脚本について聞いた。そしたら「舞台脚本は稼げないから舞台やるためにドラマや映画を書く」と言われた。


やりたいことのために確実に稼げる定職についたり、アルバイトをするとかはわかるんだけどなんでやりたくない不確実なことをしないといけないんだ!舞台が稼げないのはよく知ってたけど、それでもそこがよくわからなくて違うなってなった。


それに同じ値段ならお笑い学んだほうが書く・出るを学べるし、その他も色々学べるんじゃない?とか思った。脚本だけならいいけど演出もしたかったから、出たことない人が演出できないだろって思っていたし。


お笑いか、脚本か、どっちも違うなって思った。何がやりたいかわかってるのにこれがなんなのかわからない。こういうのって恋をしたときの「この感情がなんなのかわからない」以外では知らない。


どちらの養成所に行くのか決めないままとりあえず東京に行くことにした。


そんな感じ。


なのでまぁ、何も考えずに東京に来たというのは嘘ではない。


なにがやりたいのか。とりあえず演劇でもお笑いでもそんなくくりはどっちでもいい。脚本書いて演出して、出演はどっちでもいいから舞台を作れたらそれでいいんだと思う。


結局なにがやりたいかよくわからないまま50万くらいを突っ込める度胸がなかったし、どっちにするかとか考えるのがめんどくさくなったので養成所に行くことはやめた。通うかもしれないと思って決めた今の家だったので、だったらもっと郊外に住めば良かったと思う。まぁ、高いがその割にいい場所だ。


とりあえずフリーでやってみて、楽しかったら続けるし、就職しながらやるかもしれないし、辞めて就職しちゃうかもしれないし。そのあとで養成所に行きたくなったら来年行けばいい。そんな感じで上京して、相方探して今です。


なんで結局お笑いになったかというと、私が人を信用して任せるのが苦手なので演劇ユニット的なものを作ったとしてもうまくいかない気がしたから。全部自分でやりたいなって。


それにこんな時期に東京に突如できたよくわからん劇団の旗揚げ公演なんて誰が見にくるんだよ!


お笑いだったら賞レースやフリーライブでとりあえず認知度を上げたりして、そこから単独まで持って行ける可能性もある。その方がやりやすいだろうと思った。


しかも演劇となると1時間程度の脚本は書かなくてはいけない。書くようになったとはいえそんなに長いのは書けないかもしれない。


書いたとして面白くない1時間を作ってしまったとき消すのは容易ではない。それを何回も使えるわけじゃないし、覚えるのもやるのも大変だろう。これをほぼ誰も見てないなかでやるのは地獄だ。


ただ2分や5分のネタなら、書いても最悪捨てられる。パターンを色々考えられる。同じネタを書き直して(書き直さずとも)何回も使える。お客さんがいなければまたやればいい。あれ、コントの方がコスパがいいじゃないか!


これは決して演劇を馬鹿にしているわけじゃなくて、だからこそすごいなとやっている人たちを尊敬するという意味である。今後はよりありがたがって芝居を見ようと思う。


コントとはなにか、演劇とはなにか、色々考えた。考えたけどわかんなかった。結局演劇の短いのがコントなんだけど、何分からコントとかそういうのはない。じゃあショートコントって何分からなんだよ、みたいな。


結局はお笑いの人がやるのはどんだけ長くてもコントで役者がやったら短くても短編演劇、みたいな感じで今は区切られてるのではないか。Wikipedia参照。



話は変わるが、2月に男性ブランコさんの単独「栗鼠のセンチメンタル」を見た。すごかった。面白かった。笑ったし泣いたしもうちょいで吐くところだった。


男性ブランコさんは芸人さんである。そしてこれはコントである。コントであり、単独ライブである。


でも演劇でもあると思った。演劇ってなんだ、お笑いって、コントってなんなんだととても考えた。こういうのはもしかしたら失礼なのかもしれないが、わたしは褒めているつもりなので許して欲しい。


演劇とお笑いの隙間、そこに割と若い人たちもいるんだなと思った。しかも吉本の芸人さんで。元非吉本芸人ファンとしては衝撃だった。


その隙間、まだ通ってもいいんだ。と思った。


目指しているとかきっかけというより、なんというか気づき?みたいな感じだった。なんだそれ。


そんなわけでなんか色々やってみたいなとは思ってる。賞レースもそんなに出たくないけど出るし、あと漫才もやる。多分。いくつか書いたから。書いたからにはやる、もったいねえし。


とりあえず今のところ色々考えるのはすごく楽しい。ただめちゃくちゃ出たいタイプでもないし緊張しいの心配性なので出るのはやっぱり不安。


中高と吹奏楽やってたときは本番前は舞台袖で嗚咽が止まらないし本番で必ず一回はミスる感じだった。


これはでも緊張とか関係ないかもしれないな。いつも楽器の練習よりMCのネタ作りに時間をかけていたからな。高校ではMCする機会も演奏会の機会もなかったから楽しくなかったな。あっても辞めたけど。


そんな感じで何にも決めてないけどとりあえずお試し期間みたいな感じでやってます。それでも見てくださる方、広めてくださる方、応援してくださるみなさん、ありがとうございます。始める前からこんなに声かけてもらえるのとてもありがたいです。


今後ともよろしくお願いします。

  

雨のブラウン管


寝れない日々が続いている


しかしストレスというわけでもなく、過ごしている


周りに知っている人が誰もいないことはいろんな人に心配されたことであるが、私にとっては過ごしやすい環境である


虫が出たときに頼る人がいないこと以外は


前の家よりも静かだ、高知から東京に来たというと逆だと思われるだろう静けさだ、住宅街はいい、とてもいい


ただ最近は雨が多い、雨の日は体調を崩す、東京にきてからよりそうなった気がする、気のせいかもしれないが


頭痛もたまになる、あとなんか気が滅入る、恐ろしいくらい滅入る、滅入るという漢字がなんか気持ち悪くてより滅入る


最近考えていることは馬鹿げたことと辻褄の合わない鬱だ


確実に昨年よりは元気であることをお伝えした上で


説明するのもめんどくさいが、こっからどんなことを成し遂げても、成功したといえても、お金を稼いでも、私のやりたかったことはどうしても叶わない


そう考えると一生この苦しみは付き纏うのだろうな、何もかも忘れて幸せになるという想像ができない


でもなぜかどんなに頑張っても幸せは掴めないという事実が掻き立てる、きっと矛盾しているが、もはや矛盾かどうかすらよくわからない


幸せを掴むためとか成功するためとか、誰かのためとかまあそういうのを全く考えてないわけではないだろうが、結局自分の心が落ち着く方に身体の傾きを委ねているくらいのものだ



なんかめちゃくちゃ泣く日とかがある


感受性が豊かなので、いや涙腺がゆるゆるになっているので、いや情緒が不安定なので、かもしれないが泣く


でも泣いてる姿なんか気持ち悪いなとか思う、あんまり涙が似合うタイプではない


ではどういうタイプが涙が似合うのかというと多分か弱い女の子とか、熱い男とかだと思う


私は冷静な女性というタイプなので多分似合ってない


私は前の、その前のスマホは青を買ったくらい青好きだったのだが、浴衣を合わせたときに青系あんまり似合わない、と言われてから青は避けて通るようにしている


とはいえ好きなので水色とかをやめて紺色とかにする、そうすると割とマシな気がする、パーソナルカラーとかはよくわからないが多分暖色が似合うのだと思う



青は好きだけど似合わないから着ないようにする、そんな感じで涙もろいが似合わないので人前で泣かないようにしている


そんな感じで過ごしているのかもしれない


死ぬ気でやっている、つもりである


死ぬ気でやってみ死なないから的なやつは本当に死ぬ気じゃないからじゃんと思う


死ぬ気でいけるのは一歩目だけで、そこからも死と隣り合わせだ


なんだかんだ死なないのは死なないからなんだ


または死ねないからなんだ


存在ごと消してしまえるのなら多分もう消していて、それができないから生きるしかない


そうなったときに平穏なように、平穏なように、そう進んだからと言って平凡な道になるとは限らないので、茨の道を進むことが平穏な人もいるわけです


マジで弾丸で来たのでお金の不安だけはね、どう頑張ってもずっとある、ほぼ減ってないのに不安で仕方ないよ、とりあえずバイト決まったのでよかった、掛け持ちしたい、仕事がない、つらい


雨の日はトムとジェリーが見たくなる


うすぬれた廊下を走る匂いがするような気がする